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武術のヒント

百尺竿頭すべからく歩をすすむべし

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前回でしたか、「稽古の目的は稽古である」。というヘルゲル氏の言葉を引用しました。

でも、多くの読者は????となったことでしょう。

補足の意味もあり、私の理想を述べてみます。


むかし、一遍上人がこんな歌を詠みました

唱ふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして

ところが、「未徹在」(徹底していない)と退けられました。

一遍上人はまた修行しなおして、今度は

唱ふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

これは声が聞こえるようでは、まだ捨てきっていないと退けられて、南無阿弥陀仏が自分か自分が念仏か分からないほどに徹底した姿を現した逸話です。


私は、いつも業が自分か自分が業か混沌とするまでやりなさいと弟子たちに言っています。
昔からこういうエピソードが伝わっているので、現代は修行がやりやすい環境でしょう。

今夜の虎乱洞での 無有庵師範と無完庵師範代の相対稽古。見るべきものがあった!というより感心した。
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私が南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えているのではない、念仏が念仏を唱えていると一遍上人は言われたそうです
「念仏が念仏を申すなり」
完全なシンクロですね。

道元禅師は「百尺竿頭一歩を踏み出せ」と示されています、今夜はこれがテーマ。
そんな所から踏み出したら落ちてしまうじゃないですか!それをやれと仰せです。
自分をゼロにしてしまおうじゃないか、そうしたらなにごとかが起きる。
これは比喩でしょうが、そういった覚悟が備わった人が仏道に限らず武道でも「道を得る」可能性が非常に高いというお話です。


さて、坐禅はそれにより悟りを得る手段ではありません。
坐禅しているそのことがすでに悟りだとされている。
もちろんこれは、われわれ(禅信徒)の信念です。

居合においても、稽古に没入する姿が悟りだと私は思っていますから、稽古の目的は稽古で矛盾ありません。

道元禅師は次のようにも説かれています

「上智下愚を論ぜず、利人鈍者をえらぶなかれ」
※賢い愚かは気にしない、すばしっこい人鈍い人もえらばない)

まさにそのとおり、道場ではうまい下手など気にしない、立派かどうかは、その人が稽古に向かう態度によると思っています。
だから、基道館では少年や女性が活き活きと稽古に向かう環境があるように思います。

腕力など問題ではありません。剣道連盟の講習会で抜き付けを50回、号令でやったことがあります。
今思うと、なんてアホな連中だろう・・・・・・


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